ご存知
□■平河総合戦略研究所メルマガ■(2011年9月12日 NO.1023号)
☆☆甦れ美しい日本☆☆ より
下記は、尊敬する西村真悟氏の論評・・・頭がさがります。
どうしてこういう方が日本のリーダーではないのだろう。
また、今日見たTVでの立ち上がれ日本」の支持率は0,1%・・・
民主が27%・・・???
自民が19%
マスコミ操作だろうと思うが、この国はどうなっているのであろうか。
鉢呂の替わりに、とっつあん坊やのエダノ。
これじゃーTPPマッシグラになる。
日本の国体はどんどん弱まる一方。
どうにもできんのか・・・・
翻ってフランスでも原発事故があり、EU株暴落が止まらない。
世界大恐慌ももうまもなく来る。
日本は、世界は・・・・。
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◎西村真悟氏 「アショナル・アイデンティティー」と対馬
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私のホームページでもお伝えしていたように、九月十日に大分市で、全九州の青年会議所JCの行事として、主権、領土、国防を考える「ナショナル・アイデンティティー」を掲げた集会が開かれ、私も講師として参加させていただいた。
集会では、まず私の基調講演が為され、次にJCの時 忠之会長と私との四十分のディスカッションあった。
このJCの時 忠之会長とは、初めて会ったのは三年ほど前の対馬のうどん屋であった。そのことを時会長から指摘され、対馬が生々しく甦った。そして、そのまま基調講演からディスカッションに入った。
まず私は言った。
国家の独立自尊の前提にはアイデンティティーの自覚がある。アイデンティティーの自覚無き独立自尊はあり得ない。
そこで我々は、我が国家のアイデンティティーを見つめるに当たり、まず第一に注意しなければならないことがある。
それは、
「戦前と戦後を連続したものとして捉えること」である。
戦後の教育は、間断なく、戦前と戦後を断絶したものとして生徒に教え、戦前は軍国主義で戦後は民主主義だと教えてきた。
しかし、無意識のうちに戦前と戦後を断絶したものと考えていては、皇紀二千六百七十一年を閲する我が国家のアイデンティティーなど捉えられようはずが無い。そして、我が国家の独立自尊の国家戦略は打ち立てられずに、亡国に至る。
現在の我が国家の深刻な危機は、現在の政治(戦後体制)が、我が国の戦前と戦後を断絶したものとして考え、終に国家戦略無き漂流を続けていることから生まれている。
では、戦前戦後を連続したものとして捉えれば何が甦るのか。それは、「大日本帝国憲法」と「教育勅語」と
昭和十六年十二月八日の「開戦の詔書」である。
そもそも、天皇陛下の詔書を忘れて我が国家のアイデンティティーの自覚も将来もあり得ない。
「開戦の詔書」を今読めば、今まさに中国共産党の軍隊によって詔書が述べる状況に我が国家が嵌められつつあることが分かる。「開戦の詔書」こそ、現在に対して切実な歴史の教訓を示すものである。
そして、以下、昭和二十二年五月三日に施行された「日本国憲法」と称する文書が無効であることを述べ、国家戦略として海軍と空軍を強化増強して海洋国家である我が国のシーレーンを確保して独立自尊を貫かねばならないと締めくくった。
次に、ディスカッションに移り、JCの時会長が、会場の参加者からのアンケート調査の結果を報告された。そのアンケートの問いの一つに、関心のある領土を問うものがあった。
その答えの中に、尖閣、竹島そして北方領土に続いて、対馬に対する関心が意外に大きな割合を占めていた。
そこで、会場でも対馬に関して述べたのであるが、本通信でも対馬に関して述べたうえで、来年三月に行われる対馬の市長選挙は、我が国の将来に重大な影響を与えることになると注意を喚起させていただきたい。
対馬は日本の原像である。あの北東から南西に伸びる百キロに足りない細長い島の森の中には三百を超える神社がある。
そして、対馬は我が国の存亡の危機において過去四度、歴史に登場する。
その一。
西暦六六三年、我が国は朝鮮半島白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた。そして後の天智天皇、中大兄皇子は、六六七年、唐の脅威を防ぐために対馬の中部の入り江に金田城を築城する。
この城は、海岸から二百七十五メートルの急斜面の頂まで石で保塁を築いた大規模なもので、その堅牢な保塁は今も残っている。
万葉集に、
大君の 命かしこみ 磯に触り
海原わたる 父母をおきて
今日よりは 顧みなくて 大君の
醜のみたてと 出で立つ吾は
という歌が載せられているが、諸兄姉は、この歌を歌った防人の兵士が対馬で運んだ保塁の岩に今も触れることができる。
その二。
文永十一年(一二七四年)十月五日、対馬中部の小茂田浜に蒙古の四百五十艘の軍船が接岸し三万人の蒙古軍が上陸してきた。
時の対馬地頭代である宗助国六十八歳は、八十騎を率いて小茂田浜に駆けつけ、蒙古軍と戦って息子、養子とともに玉砕する。
その地頭代宗助国以下八十騎玉砕の報は、直ちに鎌倉に伝えられ、執権北条時宗のもとで日本は初めて一丸となる。
その三。
西暦一八六一年二月、ロシア軍艦ポザトニック号は、対馬中部の浅茅湾に入り芋崎に接岸しロシア兵を上陸させロシア国旗を立てて居座る。二人の対馬藩士がロシア軍に退去を要求して殺害される(彼らは靖国神社に祀られている)。その後、ロシアは六ヶ月にわたって芋崎を占領し続けるが、勝海舟らのイギリス軍を使った退去要求によって同年八月に退去する。
この時、もしロシア軍を退去させることができなければ、対馬は北の樺太と同様にロシアの掌中に入っていたであろう。樺太にも、ロシアは対馬と同時期に同様の手口で侵入してきてロシアの旗を立てている。
その四。
明治三十八年五月二十七日、我が国連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を対馬沖に迎え撃ち撃滅する(日本海海戦)。
その百年前のイギリス艦隊がフランスとスペインの連合艦隊を打ち破ったトラファルガーの海戦が、
「ヨーロッパをナポレオンから守った戦い」だと言われるのに対比して、日本海海戦は、
「アジアをロシアから守った戦い」だと言われる。
なお、我が国では、「日本海海戦」と言われるが、ロシアやヨーロッパでは「ツシマ」という名で呼ばれる。「ツシマ」が日本とアジアの運命を決したのだ。
以上が、対馬が我が国の歴史の中に強烈に登場する場面である。その全ての場面で、ツシマは、大陸側の勢力に対する「国境の島」もしくは「国境の海域」として、戦場となってきた。
そして、対馬は全日本を守ってきた。
対馬は、このように我が国の運命の島と言ってもよい。
二〇〇五年五月二十七日、対馬の有志が主催して、対馬において日露戦争における日本海海戦百周年記念式典が行われた。
まず対馬沖の海戦海域に海上自衛隊の掃海艇に載って出て、慰霊の花束を捧げ御神酒を注いだ。ウクライナの大使、ロシアの公使が掃海艇に乗っていた。
そして洋上から対馬に戻り、沈む船から脱出したロシア兵が命からがらボートでたどり着き、対馬島民の手厚い世話を受けた北対馬の比田勝の浜において慰霊祭を挙行した。
同時期、イギリスでは、トラファルガー海戦勝利二百周年の観艦式が、イギリス女王陛下が観閲官となられ挙行された。この観閲式には、我が国の海上自衛隊の練習艦隊も参加した。
しかし、我が国においては、本来国家が挙行すべきトラファルガー海戦を凌駕する意義を持つ日本海海戦の百周年行事を何ら行わなかったのである。
そして、その国家が為すべき行事を、時の内閣に変わって対馬の有志が行ったのである。
その有志の代表者が、北対馬に住む武末裕雄氏だった。
私は、日本海海戦百周年行事の準備段階で武末さんと知り合い、同志になった。
ところで、この対馬、太古から我が国を守ってきた対馬、
我が国の運命の島であり、我が国の原像である対馬の、
現在の状況であるが、
海上自衛隊の基地周辺を初めとする島の要衝を外国人によって買い占められているのである。その買い占めは年々進んでいる。
さらに、豊かな対馬の海の幸を生み出す藻場も外国人によって荒らされるままである。
そして、対馬に来る韓国人の中には、対馬は韓国のものと公言する輩もいる始末である。韓国の馬山市などは対馬は韓国の領土だという決議までしているのだ。
この事態に対して、対馬市をあずかる現市長は、日本人もアメリカの土地を購入しているのだから対馬の何処の土地を外国人が購入しようと自由であるという考え方で、何の問題意識もない。
このような考えでは、対馬の将来を守ることはできない。危機が対馬を襲いつつある。
従って、この危機を克服する為に、来年三月に行われる対馬市長選挙に、「このままでは対馬が危ない」という危機意識から
武末裕雄さんが、立候補する決意を固めた。
この事態を受けて、私は、九月十日には、大分の会場におられる参加者に、
「対馬をみんなで守ろう、対馬を宜しく頼みます」
と呼びかけた。
さらに、本通信でも諸兄姉に呼びかけたい。
「対馬を守るために、来年三月、重要な対馬市長選がある、どうか宜しく頼みます。みんなで対馬に武末さんの応援に行こう。」
そして、ナショナル・アイデンティティーを掲げた大分での集会を実施するために、全九州から集まったJC日本青年会議所の若き経営者の諸君に、感謝し敬意を表して本通信を終える。